東日本大震災から6年経過して、あの時に感じた気持ちを整理してみた。

 

 

こんにちは、つかっち(@tukatti7772)です。

本日は2017年3月11日、東日本大震災から6年が経過しました。

 

私は当時は学生で、就職活動中でした。

関西に住んでいましたが、とある会社の面接を受けて一回家に帰ったところで、

小さな揺れを感じたことを覚えています。

しかし、テレビをつけると「震度7」の表示が。

実は東北沖で起きた地震で、関西まで揺れが届いていたのだということを知りました。

 

 

 

 

 

東日本大震災の津波の衝撃。

 

 

 

 

一瞬で阪神大震災クラスか、それ以上の災害が発生しているということを悟りました。

大学の研究室に行こうかと思っていましたが、それも取りやめて、

ずっとテレビの地震情報を見ていました。

東北は宮城県沖地震など、頻繁に大きな地震が発生する場所ですから、

意外に大丈夫なのだろうか?と思っていたのですが、

その考えはテレビの映像を見て打ち砕かれました。

 

 

津波。

 

 

大きな津波が町を襲い、車も家もビルも全て飲み込んでいく映像をリアルタイムで見ていて、

息を失いました。町が全て飲み込まれていく、このようなことがあるのか?と。

高い建物もいくらかあったはずなのに、それすらも飲み込まれていく。

高架道路に車が何台か走っていて、今にも津波が襲おうとしている。

次の映像では、その高架道路も津波に飲み込まれていました。

走っていた人たちはどうなったのだろうか?

 

 

このような津波は生まれてから見たことがありませんでした。

津波といっても、せいぜい2~3mくらいのものなのだろう、と思っていました。

しかし震災の時に襲ってきた津波は10m~20mクラスのものでした。

想定を遥かに超える津波でした。

この震災で津波による犠牲者が最も多かったのは宮城県ですが、

宮城県の沿岸部は過去にも度々津波に襲われていたため、

住民の方々の防災意識も比較的高く、高い防潮堤が築かれている地域もありました。

 

 

しかし津波はその防潮堤すら乗り越え、避難指定の場所すら簡単に飲み込んでいきました。

このような津波は、誰にも予測できなかったと思います。

過去100年、見たことすらなかったのですから。

結果的に、15000人もの方々が亡くなってしまいました。

1万人を超える犠牲者が自然災害によって発生したのは、戦後初めてのことです。

 

 

打てる対策は、津波警報が発令されたら、一刻も早く、

とにかくとにかく高い場所に逃げること。

これに尽きると思います。近い将来発生が予測されている、南海地震でも同じです。

最悪のケースで、どこまで津波が登ってくるか各自治体で試算されていると思います。

それより高い場所に逃げるだけです。それしかありません。

 

 

・・この地震が起きる約3年前に、私は大阪から電車で北海道に行ったことがあります。

その途中に、この三陸地域の海岸沿いを走る電車に乗っていました。

もしあのタイミングで地震が発生していたら、私の命もなかったことでしょう。

景色が綺麗で良い場所だな、と思っていたのですが。方言は良く聞き取れませんでしたが・・

あの時電車に乗っていた大人や学生、子供たちは今、無事に生きているのでしょうか。

生きていて欲しいと願っています。

 

 

 

 

震災後の混乱に輪をかけた、福島第一原発の水素爆発。

 

 

 

 

大地震と津波による被害も正確には把握できず大混乱の中、

翌日の3月12日には福島第一原発の一号機で水素爆発が発生しました。

正直、このニュースを聞いた時には大津波以上に衝撃でした。

「原発が爆発するなんてあり得ない」

と思っていましたから。ニュースを聞けば放射線の量が周囲で上昇しているという。

何のことやら訳がわからない。これが本当だとしたら、福島やその周辺はチェルノブイリのようになる?

 

 

そのようなことが日本で起こるなど、想像もしたことがありませんでした。

私の実家の近くにも原発があり、「原発が爆発したらここも終わりだね~」

などと、笑い話をしていたことを覚えています。

原子爆弾ではないので核爆発のようなことは起こらないものの、

原発が爆発したという事実は、受け入れるまでに時間がかかるものでした。

 

 

そもそもこの事故が発生した当時は全容も掴めておらず、

収束が可能なのかどうかすら全く分かりませんでしたね。

テレビやネットで情報が錯綜し、非常に不安になったことを覚えています。

特に私は親戚が多く福島県におりましたので、

深刻な汚染が広まるのであればもう諦めればならないかもしれない、と思っていました。

 

 

関東でも放射線量の数値が上がってきており、

水素爆発や格納容器の損傷で放射性物質が外部に出てきているのは明白でした。

この時点で、メルトダウンが起きているのでは?いやそんなことはない、

などと論争になっていましたね。結果的にメルトダウンは起こっていた訳ですが・・。

 

 

調査の結果は、核燃料は原子炉の圧力容器の底もしくは格納容器の底で冷えて固まっている、

ということでした。これが本当に不幸中の幸いであったと思います。

もし、事故当時に水冷が十分に行われていなかったら?その作業が少しでも遅れていたら?

燃料は高温のまま、格納容器すら溶かして外部に出てしまっていたかもしれません。

もしくは水蒸気爆発が起きて原子炉ごと吹っ飛んでしまったら・・・

 

 

大量の放射性物質がまき散らされ、必然的に作業員は撤退、

福島第一原発とその隣の第二原発は制御不能になって、

全ての原子炉で爆発が起き、また放射性物質がまき散らされ・・

チェルノブイリを超える大惨事になって、東北はおろか首都圏まで住めなくなり、

何十万もの人間が死に、多くの人が避難を強いられ、西日本も大混乱に陥る。

日本という国が全く機能しなくなっていたでしょう。

他国の介入も現実にあったかもしれません。

 

 

現実にはそのようなことにはならず、ギリギリのところでコントロールされましたが。

当時関西にいたので、比較的冷静にそのような最悪の事態が起こり得ると考えることができました。

そう考えた時、自分が被災した訳でもないのに、大きな恐怖を感じたことを覚えています。

日本という国が、滅ぶかもしれない。そんなことを考えたのは人生であの時だけです。

戦争をしている訳でもないのに、そんなことを考える日がくるとは思ってもいなかった。

そのようなことにならなくて、本当に良かったと思っています。

 

 

それでも、多くの放射性物質が結果的にまき散らされ、

周辺の地域は汚染されて住民の方々は避難を強いられています。

汚染がひどい地域は、何十年も住むことができないでしょう。

地元が奪われ、戻ることすらできないというのは、どれだけ悲しみと怒りを覚えるのでしょうか。

もし、私の実家の近くの原発で同じような事態になれば、

私の地元にも戻ることはできなくなるでしょう。他人事ではないのです。

 

 

 

大地震・大津波・原発事故が重なった未曾有の大災害から、

昨日で6年が経過しました。もうそんなに経つのか、という思いがありますが、

未だに余震は多く、津波被害からの復旧は十分ではなく、

原発の廃炉にもほど遠い。完全に収束したとは言い難い状況です。

完全な復興までにあと何年必要かは分かりませんが、自然の力というものは恐ろしい。

そして人間は、自分たちの力で制御できないリスクの高い技術は持つべきではないのかもしれません。

 

 

災害からの一刻も早い復旧と、亡くなられた方々には心からご冥福を祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

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